体験談

高松から今治に通ったお産

N.M.

2005年7月9日、私は日浅医院において女の赤ちゃんを授かる事が出来ました。初めてのお産でしたが、何の不安もなく臨む事が出来た事、今なお思い出すと幸せな温かな気持ちになれるお産をさせて頂いた事に、日浅医院のみなさんに対して感謝の気持ちでいっぱいです。

今回の妊娠を知ったのは31歳の誕生日でした。結婚6年目にしての妊娠で、最高のプレゼントに胸がいっぱいになりました。夫の立会いが出来、日曜も診察をしている近所の産院に通う事にしました。妊娠中期に2回程おなかが張っていて、もう少しで入院になるとの事で安静を告げられ、お薬を頂きました。それ以外、経過は順調でした。
ところが妊娠8ヶ月に入った頃、私は必死に産院をインターネットで探していました。それまで通っていた産院で、どうしてもお産をしたくないと思ってしまったからです。妊娠当初は、夫の立会いが出来、日曜も診察をしているところ、という条件しか考えておらず「自然出産」をうたっているその産院に安心して通っていました。今思えば「自然」という意味もよくわかっていないのに、「自然」だから安心と思い込んでいました。
ところが、産院の中を案内してもらい分娩室を見たとたん、「ここでは赤ちゃんを迎えたくない!」と強烈に感じてしまいました。加えて看護師さんの型にはまった入院の段取りの説明にも疑問を感じました。「点滴、浣腸、導尿などは必要な人にだけすればいいのに、なぜみんなしなければならないのだろう?それにあんな高いところに乗って大きなライトに照らされて、なんだか恐ろしい!」こんな機械的な説明をする看護師さんを、産院を、私は信頼出来るだろうか、こんな冷たい雰囲気で赤ちゃんは生まれたいだろうか、考え始めました。ここではきっと言われるがままに行動し、産院主体のお産をする事になるんだろうと思ったのです。何よりそれが嫌だったのです。でもこれが現在のお産の主流なんだろうと思います。

もう8ヶ月、ここで産むしかないのだろうかと私は不安でいっぱいになりました。帰りにも考えたけれど赤ちゃんのこの世での最初の瞬間は、やはり夫婦2人で迎えたい、きっとこの子が私たちを看取ってくれるのだから、と考えていました。夫に相談しても、「産院の先生は人柄も良さそうだし、家から近いしここでいいのではないか」という返事だけでした。
私達は転勤で高松に来ているので、知り合いも少なく情報もなかなか得られません。そこでインターネットであらゆる検索を試みたところ、幸運にも日浅医院のホームページに辿りつく事が出来たのです。
私は「お産の理念」というところを読ませて頂き、感動しました。私が理想と考えている事が書かれてあった事、こちら側の立場になって仕事をしてくださるお医者さんがいるんだという事にです。私は赤ちゃんを無事に、家族揃って迎えたい、そして出来れば医療は必要最小限に、赤ちゃんの生まれる力を大切にしたいと考えていました。日浅医院ならその全てが叶いそうなのです。加えて情報公開もきちんとされているのを拝見し、直感的にここの産院なら信頼出来る、安心して赤ちゃんを迎えられると感じました。嬉しくなって夫にすぐメールで連絡をし、「今治って遠いの?」「車で2時間くらい」「そこで産みたい」「いいよ」といったやりとりをして早速日浅先生にメールで連絡をさせて頂きました。夫がとても優しい人で良かった、とつくづく感じた瞬間でした!
日浅先生からはすぐにお返事を頂き、こちらからお電話をする前に師長さんから丁寧なお電話を頂きました。やはり2時間という距離はどうなのか?という質問をさせて頂いたところ、初産だし大丈夫ではないかとのお返事を頂きました。こうして日浅医院にお世話になれる事になりました。

私はどうしてお産にこんなにこだわったのか、考えてみました。私事ですが、3年前に祖母が脳梗塞で倒れた時、私は1ヶ月程祖母のベッドの隣に寝泊りをしていました。意識のない祖母でしたが、せめて最期を看取りたいと思ったのです。その部屋は4人部屋、患者さんはみんな意識がありません。患者さんは、あらんばかりの薬をぶら下げている状態です。看護師さんは2~3時間おきにオムツ替えや体の向きを変えに来てくれるのですが、いくら患者の意識が無いといってもその対応がとても乱暴で、また親族である私にもオムツ換えすら見せようとせずいつも部屋から出されていました。主治医の先生も、祖母が危篤だというのに回診に来ても指1本触らずに帰ってしまいます。私が祖母の状態について説明を求めたところ、他の親族に一度説明しているから、と説明を拒否されました。また、「いつどうなるかこっちがききたい」などと暴言を吐かれました。このような経験から私は病院というところの恐さを知りました。私たち素人は、何もわからないのです。医者も看護師も1人の人間、労働者であり、その心の資質を問う事は私たちには出来ないのです。
祖母の最期をこんなところで迎えさせたくないと思い、母や親族に相談をもちかけた嵐の日に祖母は亡くなりました。機械だらけの、相部屋でした。確かに、その病院は人の死に向かっていくところ、産婦人科は人の生を迎えるところ、その雰囲気が違って当たり前かもしれません。でも人の生と死は、人間である限り誰もが通るものであり、それは双方ともに厳しくも温かみのあるものであると思うのです。
私が赤ちゃんを迎える場所、助けを借りたい人たちにこだわったのは、このような経験を祖母にさせてもらったからかもしれません。日浅医院の理念を読んだ時、このような医院が、お医者さんが存在してくださる事、またなんとかここ辿り着く事が出来た幸運に深く感謝しました。

今治までのドライブ?は快適でした。ほとんど高速道路ですし、私は助手席に座っているだけですので。通ってみれば2時間という距離は、お産の価値に比べたらたいした事はありませんでした。2ヶ月という短い期間でしたが、きめ細かい安産指導や乳房のお手入れの指導、体験入院などのお陰で赤ちゃんとの充実した時間を過ごす事が出来ました。それまでは買い物に行く時に30分程度の散歩しかしていなかったのですが、朝夕あわせて3時間くらい、毎日川沿いを歩くようにしました。朝は昇る太陽を眺めながら、夕は川面に沈む夕日を眺めながら、ゆったりとした気持ちで散歩が出来ました。散歩がこんなに楽しいなんて今まで知りませんでした。体調の悪い日や雨の日は床拭きが良いと看護師さんに教えて頂いたので、せっせと床を拭きました。食事にも更に気をつけるようになり、玄米菜食を心がけました。時々、お菓子を食べてしまってはいましたが……。
また、特に良かったのがマタニティー・ヨーガです。師長さんに紹介して頂き、高松で林先生のクラスに参加させて頂きました。ゆっくりと体を動かしゆっくりと呼吸をする事で、体が気持ちよく伸びていくのを感じる事が出来、自分自身や赤ちゃんと会話が出来るようで心が落ち着きました。リラックスしている自分を感じる事が出来るのです。それに林先生の優しい声や、毎週ひとりひとりに声をかけてくださる事に癒されたように思います。ヨーガのクラスですからヨーガをして終わりかと思っていたら、いつもためになるお話をしてくださったり、参考にと記事をコピーしてくださったり。ここにも、こちら側に立ってくださる人がいたんだ!とまたまた感動しました。やはり良い人たちは繋がっているんだなあと思いました。

中身の濃い2ヶ月間でしたので、あっという間に臨月となりました。このような活動を通じて自然と、「自分が産むんだ」という意識が徐々に強くなっていくのを感じました。36週に入った時、日浅先生に「残りの1ヶ月は全て赤ちゃんに捧げるつもりでね。しゃがみ込み300回!」とのご指導を受け、いよいよかと実感がわいてきました。赤ちゃんに全てを捧げる……と考えるとより気合いが入りました。しゃがみ込みは、冷蔵庫に紙を貼り、そこに30回を1セットとして正の字を書いていきました。最初は大変だと感じましたが、慣れてくるとやらない事が不自然に感じ、陣痛が来るその日も、産院に出かける直前までしゃがみ込みをしていました。
また、38週の時に体験入院をさせて頂きました。少しでもお産の時の緊張を無くしたかったのと、フリースタイルについてあらかじめ知っておきたかったからです。当日はヨーガのクラスに参加させて頂き、また夜はティーパーティー(※2010年現在は行っておりません)にも参加出来ました。ティーパーティーでは奥様手作りのパンを頂き、お産を終えたばかりの方々のお話をきく事が出来ました。みなさんがとても力強く、頼もしく見えました。お産を終えた女性の強さでしょうか。私もこんなふうになれるのかなと考えていました。また、このようなアットホームな集いの機会を設けてくださっている事に感心しました。
翌日は師長さんにフリースタイルについて教えて頂きました。痛みを逃すという事が、未体験の私にはよくわからなかったのですが、自分にとって心地良い姿勢をいくつか発見する事は出来ました。実際、床に座りベッドにもたれかかる姿勢が楽だとわかったので、夜中、陣痛に堪える時はこの格好をしていました。そして分娩室では、お産の時に使用しうる器具の説明もして頂きました。「カチャカチャ」という金属音は確かに恐いです。それがあらかじめ何であるかわかっていれば安心です。このような事をさせて頂きましたが、一番の収穫は多くの看護師さんとお話が出来た事で、より医院に親近感が湧いた事だったのではと思います。

無事に39週に入りましたが、お産がもうすぐだという実感はあまりなく、緊張はしていませんでした。金曜日のお昼頃から食欲がなく、なんとなく腰が痛いと感じていました。しかし痛みがそれほどでもなかったので陣痛とは気づかずにいたところ、万が一と思って痛みの間隔を測ってみたら夕方の時点で6~7分おきになっていました。先生に10分おきになったら来るよう言われていたので、ちょっとあせりましたが、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせ夫の帰りを待ちました。19時頃、医院に電話をしてから車に乗って向かいました。さすがに車の中では少々痛くなり始め、間隔を測ってみたら3~4分おきになっていました。こういう時、男性の方が気弱になるのか、車の中では私が夫をなだめていたように思います。21時頃産院に到着、入院となりました。

入院となり、まずお風呂に入りました。少し腰をかがめて歩かないと痛い、という程度でしたが、お風呂に入るとほとんど痛みを感じる事がなく、大変心地良かったです。お風呂からあがり、眠りたかったのですが横になってもなかなか眠れませんでした。ちょっとうとうとするのですがやはり目が覚めるという具合です。看護師さんが長い時間、ずっと腰をさすってくれたので、痛みがかなり和らぎました。その後、夫が一緒に横になって腰をさすってくれましたが、寝てしまって途中で手が止まってしまうので(疲れているので仕方ないです!)、ベッドの横に座り込みベッドにもたれて痛みに耐えていました。看護師さんがまた来てくれてクッションを持ってきてくださり、また後ろから腰をさすってくれました。本当に有り難かったです。

あまり眠る事が出来なかったけれど、気が高揚しているからか、疲れは感じませんでした。朝、師長さんに勧められて7時半頃お風呂に入りました。かなり痛みが増していたのですが、やはりお風呂に入るととても楽になり、夜中の痛みが飛んでいってしまうようでした。師長さんとお風呂でお話している時は耐えられる痛みだったのですが、その後急激にドカンという痛みがきました。思わず夫に「師長さん、師長さんに来てもらって~」と叫んでしまいました。8時頃、お風呂からあがり部屋に戻って診察してもらいました。お風呂に入る前に比べて子宮口がかなり開いてきているようでした。この頃から、いよいよか、もうなるようにしかならないという気持ちになっていました。先生も来てくださり、確か足をマッサージしてくれていたように思います。徐々に痛みが強くなり、声をださずにはいられなくなりました。自分でもきいた事のないような声がでてきて、必死に痛みに耐えていました。目を開ける余裕もなくなってきて、息を吐く事と赤ちゃんに会えるという事以外考えられなくなりました。看護師さんや夫が色々に声をかけてくれていたり、一緒に息を吐いてくれていたりするのがわかって、しっかりしなくちゃという思いでいました。
途中、赤ちゃんの心音が下がったとの事で吸引をして頂く事になりました。会陰を切るね、と言われましたが切られているという感覚は多少あったものの、痛みは無かったです。吸引されているという事も自分では全くわからず、とにかく必死でいきんでいました。夫の「根性見せろ!」という声がきこえ、そうだ、根性だと自分に言い聞かせました。「赤ちゃんの頭が出てきたよ!」という声がきこえた後は、力を抜いた方がいいような感じがして力を抜いてみたら、スルスルと肩が出るのがわかりました。9時16分でした。「女の子だよ」という声、夫の「Mちゃん、すごいよ」という涙声。そしてすぐに胸の上に乗せてもらった赤ちゃんの温かく湿った感触。小さいけれどしっかりと存在している我が子を胸にすると、今までの嵐のような時間が嘘のようで、時が止まったように感じました。赤ちゃんを胸に抱いたまま、へその緒を握ってみました。細く透明でとてもきれいでした。へその緒を切るのは緊張すると言っていた夫でしたが、その瞬間を楽しむがごとく冷静にしっかりと切ってくれました。こうしてみなさんの助けのもとに、無事に娘が生まれてくれました。何にも変え難い幸せです。

お産の当日から、おっぱいをあげて、夜も一緒にお部屋で過ごす事が出来ました。親子3人の初めての夜です。夜には、朝に出産したばかりなんだという事もすっかり忘れる程私は元気で、初めての赤ちゃんとの時間にわくわくしていました。入院中は、沐浴の時と私が用事のある時以外はお部屋で赤ちゃんと一緒でしたので、退院する頃にはお世話にも慣れ、家に帰る事に不安はありませんでした。ただ、産院の居心地があまりに良かったので、夫と2人でここに住みたいね、などと話していました。

私はこうして、何の不満も心配もなく、満足感いっぱいのお産をする事が出来ました。あの時勇気をだして日浅先生にメールをして良かった……とつくづく思います。「自然」なお産という事の意味を体験してみて改めて考えてみると、それはごくごく当たり前の事なのではと思います。当たり前というのは、そもそも女性と赤ちゃんに備わっている力を引き出せばいいという事です。アクティブでないお産、フリースタイルでないお産、自然でないお産を本来の姿に戻す事が「自然出産」という事なのではないかと思います。
このように考えるようになった私も、妊娠する前はお産を終えた友人の話を聞いて、促進剤ってみんな使っているんだ、高齢で初産だとほぼ帝王切開が普通なんだ、と何の抵抗もなく思っていました。今は、薬の話はもちろん、赤ちゃんが授乳の時間になるとワゴンで運ばれてくるとか、先生は生まれる直前に医療行為をしにくるだけとか、そんな話をきくと私がいかに恵まれた環境でお産が出来たかを思い知らされます。

もちろん「お産」に対する考えも重きのおき方も十人十色ですから、あくまで自分自身がどのようなお産を望むかが大切かと思います。私は、家でお産がしたいとか、一切の医療行為をして欲しくないとか、そう言った意味での自然なお産を望んだのではありません。家族に見守られ、信頼出来る人たちの助けを借りて、赤ちゃんの生まれる力を信じて、自然な流れの中でお産がしたかったのです。しかし初めてのお産ですし、途中で何があるかわからないのが現実だと思います。そんな時に医療の力を借りたいと考えていました。赤ちゃんがこの世に生まれる瞬間を大切に思えば思う程、自然とそのような考えになっていったように思います。このように思っても産院の先生に、「見守ってください、何かあったら医療行為をお願いします」などとなかなか言えるものではありません。日浅医院の場合は、こちらが何も言わなくてもこちらの意を汲みとって、そのようなお産が出来る環境を提供してくださったと思います。そのように妊婦の視点でお産を捉えるからこそ、アクティブ・バース、フリースタイルといった事への取り組みに繋がっていくのだと思います。その点が私にとっては大変価値ある事だったのです。

今、私はお産を終えた清々しさでいっぱいです。もう1人赤ちゃんを産みたいとすぐに思える程、赤ちゃんが可愛いです。確かにどのようなお産をしても生まれた赤ちゃんは可愛いはずです。でも、せっかく人として女性として生まれたのだから、人間が人間を生むという神秘的な体験を自分の思うようにし、家族みんなで分かち合って、赤ちゃんにその事を語り継いでいけるようなそんなお産が出来たら素晴らしいと思います。両親が自分の生まれた日がどんな日だったか、どうやって生まれてきたかを語ったら、子供もきっと喜ぶに違いありません。自分は望まれて温かく迎えられたんだと実感出来ると思います。そうやって命のリレーをしていけば、親子の絆がより深まるのではと思います。ひとつの家族が強い絆で結ばれれば、ひいては世の中の平和に繋がっていくのでは……と大げさかもしれませんが思わずにはいられません。
初めてのお産を振り返ってみると、私にとって今までにない強烈な体験だったと実感します。夫にとっても同じだったようで、最初はお産に興味を示さなかった彼も、今では自然出産の伝道師のようになっています!父性にもばっちり目覚めたようで、オムツ換えからお風呂まで一生懸命にやってくれます。
また、産院で嫌な思いを全くしなかった事、あらゆるところでのきめ細かなお心遣いや、看護師さんがみんな本当に親切で優しい方ばかりだった事に驚いてしまいます。先生と看護師さんの楽しいやりとりや、美味しいハーブティー、診察室にあった月齢ごとのキューピーちゃんなど思い出すとほのぼのとした気持ちになります。転勤で訪れた四国でしたが、今治が私たちにとってこんなにも思い出深き場所になるとは思ってもみませんでした。

最後に、こうした自然出産への取り組みに日々邁進されている日浅医院のみなさんに敬意を表するとともに、娘の人生の最高のスタートをプレゼントしてくださった事に改めて心より感謝申し上げます。今治からのこうした運動がもっともっと広がって、私たちのように幸せな家族がひと組でも増えますようお祈り申し上げます。

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